外連、内包
なんだか久々にブログを書こうと思った。
俺の好きな人が珍しくブログを書いていて、その中で「ブログを書くことが好きだ」と述べていたのが原因だと思う。
俺は人に影響されやすい。
Twitterでフォローしているおっさんが「牛丼に卵を入れ紅生姜を山盛りにする」と呟いていたのが羨ましくなって、今日は牛丼屋に行き初めて卵を買った。
普通にうまかった。
次に行く機会があった時、もう一度たん見たくなるくらいにはうまかった。
いるかどうかも定かじゃないがもしこの文章を読んでいる人がいたら試してみることをおすすめします。
そもそも俺はこのブログに何を書こうと思っていたんだっけ。
普段不定期的に書いている日記と同じようなことを書いてよいのだろうか。
全然関係ないが「定期的」という表現はよくあっても「不定期的」という表現は見ない気がする。
あるのは「不定期に」というものだよな。
変な感じだ。
俺は最近どう生きているだろうか。
エネルギッシュではないように思う。
明日はでかい企業の人とお昼ご飯を食べる。
俺は評価されること、評価されると意識してしまうことが苦手だ。
明日は強く生きなければ。
俺が好きな人は何某かへの不満を言語化していた。
そういうものに俺は惹かれ憧れてしまったので俺もそういうことがしたいんだけど、最近なにかあっただろうか。
俺は誰かに話したい、聞いてほしいと思うことが絶対的に少ないと感じる。
自分と、他にこの世界で誰か一人だけ理解してくれれば俺は十分だ。
他人に俺のことなんか理解できないだろうと感じている部分も多々ある。
俺はどういうふうに生きたいのだろうか。
誰かと生きることができるだろうか。
永遠に一人でいるのは寂しくて死んでしまう。
俺には妄執的に「愛している」と考える癖のようなものがある。
一人でいるときは口出てしまうことさえある。
もうずっとだ。
俺は何を愛しているのだろうか。
何を愛していて、愛しているからどうしたいのだろうか。
愛しているからどうして欲しいのだろうか。
俺は何をすればいいんだろうな。
誰かが俺の何かによって救われることがあればいいと強く思う。
俺の中の何かで誰かを救うことができればいいなと思う。
辛い人は救われて欲しい。
頑張っている人は報われて欲しい。
努力が肯定される世界であれば良いのに。
自分の考えていることを理解するということ
俺は自分が何を感じているのかということに関してどうしようもないくらいに鈍い。
なまじ他人が俺に対して望んでいるものを理解できてしまうために、無理をして他人の望みを叶えるが俺自身は無理をしているということにも気付かず気が付いた時にはすでに満身創痍で打ちのめされているなんていうのが多々ある。
この、無理をしている瞬間瞬間で「自分が何を思ってそのような行動を取っているのか?」「今行なっている行動は自分の中で無理なことではないか?」ということをきちんと理解できるようになれば俺は正しく生きていけると思う。
どうすれば理解できるようになるだろう。
「面倒くさい」ということについて思うこと
ここ2週間ほど俺は大学に行っていない。サボりだ。
そもそものきっかけは友人の看病をするために一日休んだところにある。俺が原因で風邪を引かせてしまったようなものだったので看病はしなければならなかったのだが、慣れない看病ですっかり疲れてしまった俺は、あろうことか「一日くらい休まなきゃ持たないよな」と考えたのだ。
それからズルズルとズル休みを続けて、昨日(月曜日)もサボった。今これを書いているのは早朝で、今日は一限から授業があるので行こうか悩んでいるというわけだ。本当は行きたくない。が、そろそろ流石にやばいぞとも思っている。
この気持ちをなんとか前へ向けるために「なぜズル休みを続けたかてしまったのか?」というのを整理しようと思った結果。「なんかもう色々面倒くさい」という安直な結論っぽいものに至った。
なんかもう色々面倒くさいのだが、ゲームはできるし映画も見れる。じゃあ俺が「面倒くさい」と思っていることってなんだ?原因はどこにあるんだ?というのを整理するために色々書いてみようと思う。ゴールはまだ未定である。
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